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倉田浩伸氏 世界一の胡椒、カンボジア農業復興支援 KURATA PEPPER Co.Ltd.
カンボジア農業復興支援
KURATA PEPPER Co.Ltd. 代表 倉田浩伸氏
カンボジアは世界一おいしい胡椒の国だったのに、内戦によって放置され、幻となってしまった胡椒を、生き残ったたった3本の苗から20年以上かけて再生、産業化したのが倉田浩伸氏(KURATA PEPPER Co.Ltd. 代表)だ。「なぜポル・ポトは国民の支持を得られたのか、一番の原因はどこにあったのか、それを理解しないとまた同じことが起きる。戦争の背景にはアメリカ型の資本主義がある」。日本人が一日に500個しか作れない小さな部品をカンボジア人は6000個作るという。しかし給料は日本人の20分の1だ。日本の企業はアメリカ型の資本主義を目指しているのだろうか?「私たちの普段の生活がどれだけ海外の人たちのお世話になっているか、もう一度じっくり考えて欲しい」と、倉田氏は訴える。<編集部より>
株式会社シーエフエス 特別講演にて。
カンボジアに行って胡椒を作って20年以上になります。これまで自分が何をしてきたんだろうと振り返ってみると、よくわからない半面、自分のやりたいことをやってこられて大変幸せだったなと思います。これから20年、40年先、自分がリタイアした後でもそのカタチが残っていくといいなと思いながら仕事をしています。
なぜカンボジアか
1984年に公開された「キリング・フィールド」という映画がありました。カンボジアの内戦を舞台にした映画ですが、見ても意味がわからないわけです。
戦争の話は、戦争経験者である両親からもよく話を聴かされていました。でもイメージが湧かないんです。それが故沢田教一氏の撮った「安全への逃避」という写真を見て、「ああ僕が生まれた後も、戦争は続いているんだ。同じアジアで今も戦火から逃げ惑っている人がいる」とズキンとしました。それが中学生のときです。
戦争って弾丸が一発当たったら、それで突然人生が終わってしまうというとんでもない話じゃないですか。交通事故とかもそうです。この映画を見た数カ月後、兄を交通事故で失いました。
わからないなら勉強しようというきっかけになりました。高校の時に狂ったように勉強しました。ポル・ポトの大虐殺はなぜ起こったのか、なぜ彼は国民の支持を得られたのか、一番の原因はどこにあったのか、と調べました。その背景にアメリカの資本主義の存在があったということは知っておいて頂きたいです。
啖呵を切ってNGOへ
大学の語学研修でアメリカに滞在していた91年に湾岸戦争が勃発しました。同級生はドラフト(有事の際に抽選で招集がかかる)にヒヤヒヤしながら、「日本人はいいよな。カネ出すだけで」などと言われて非常に腹が立ちました。バブルの頃ですからいわゆるジャパン・バッシングです。「お前たちが行かなくても俺は行くぞ」と啖呵を切って帰国後、クルド難民の救援ボランティアに参加しました。
そのNGO(非政府組織)はそうそうたるメンバーで作ったのですが、難民救援は国の思惑を超えることはできず、思うような活動ができませんでした。次は内戦が終結したカンボジアだということになり、これまで勉強はしてきたけれども現地で確認したいことがたくさんあったので手を挙げました。UNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)は、PKO(平和維持活動)機関として92年には自衛隊も派遣されましたし、私はNGOの隊員として参加することになりました。
内戦から逃避していた難民を、帰還・収容するプロジェクトで、仕事は一時滞在センターの何でも屋です。食事の支度をしたり、書類のタイプをしたり、ここで物資輸入の手続きをした経験が、今の事業に役立ちました。
飛行機から降り立った時、熱気に混ざって何とも言えない生ゴミの匂いがするわけです。まず人間って、誰も何も言わず、放っておくとこうなるんだなと感じました。交差点の真ん中に生ごみがクリスマスツリーのように積み上げられている。電気もなく、国営ホテルでさえ自家発電です。上水道も茶色い水でした。買った水でさえ初日に水あたりを起こしました。電気もガスも水道も何もない。あるんだけど、私たちの考えるようなレベルにはない。衛生観念がまったくない。ご飯を炊いても真っ黒。黒いの全部ハエなんです。いくら追い払ってもたかってきて一面真っ黒です。今のプノンペンは当時を想像できないくらい普通になっています。
この活動は93年にセンターの閉鎖とともに終了するのですが、継続的にカンボジアを支援していこうという団体が新たに生まれました。当時大学を卒業するのに、卒論は通らない、内定は取り消される、でどうしようかと困っていたところ、この団体が事務員として雇ってくれたので、再びカンボジアに戻りました。失ったものを回復するためには教育に重点を置いて支援していくべきだと学校を作っていくことになりました。しかしハードを作ってもソフト、教える人やカリキュラムがなくては意味がない、とそこを辞めました。国づくりを考えると、カンボジアの経済を立て直すには、産業の育成が必要だろう、農業国ですから、農村の底上げをして、農村の人たちが幸せに暮らせる環境を作らなければと思いました。
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