元零戦パイロット 原田要氏の人生観、死生観~戦争を止めるのはお母さんたちだ~
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元零戦パイロット 原田要の人生観、死生観~戦争を止めるのはお母さんたちだ~
元零戦搭乗員/零戦パイロット 原田要氏
「戦争の体験者は80歳から90歳。私たちが生きているうちに戦争の真実を伝えて欲しい」と訴えるのは、元大日本帝国海軍零戦パイロットの原田要さんだ。「攻撃する技術と防御する技術を競い合い、このまま戦争を続けていたら、人類は滅びる」と警鐘を鳴らす。地獄のような絶望的な局面から、何度も奇跡的に生還した原田さんは、その都度母親の姿を見たという。戦争を止められるのは果たして誰なのか?多数の犠牲者を出した我々日本人こそが歴史に学び、その答えを見出していくべきではないだろうか。<編集部より>
幼稚園時代が一生を大きく左右する
人間は、生まれて3歳から5歳ごろまで、いわゆる幼稚園時代に与えられた感激やインパクトが、その人の一生を大きく左右するのではないかと感じています。私は大正5(1916)年生まれですから、5歳の時だったと思います。祖父が「今日、東京から飛行機というものが来るそうだ。お前見たいか」と言うわけです。飛行機なんて聞いたこともないから見たいし、人間が小鳥のように空を飛べるなら、ぜひ自分も飛んでみたいと思いました。
「じゃあ連れてってやろう」と、ここから8キロくらい先の河川敷まで歩いて行ったのですが、噂を聞きつけて観客がたくさんいました。ところがなかなか飛んで来ない。東京から来るのだからと東の方角を一所懸命見ていたのですが、南の方からブンブンブンとおかしな音が聞こえてきました。小さなトンボのようなものが見えてきました。「あああれか」と。水のない河川敷に降りて、離陸してを繰り返したかと思うと、二人乗りのうちの一人が座席で立ち上がったりして、すごいなと思いました。「よし、俺も大きくなったらあの人のように飛びたい」それが私がパイロットになろうと思ったきっかけです。
日清・日露戦争で従軍した方がおじさん達の中にもたくさんいました。彼らはお酒を飲むと必ず戦争の話になります。「ロシアという巨大な国と戦って勝ったんだ」「乃木将軍が二百三高地で旅順を」「東郷平八郎元帥がバルチック艦隊を」と勇ましい話ばかりです。当時は先進国に追いつけ追い越せという空気が支配していました。私たち少年の感激は非常に大きくて「俺も大きくなったら、お国のために活躍して名をあげてやろう」と思いました。戦争に対する罪悪感など全くありませんでした。当時戦死したおじが長男だったので、祖父は国からお金をもらっていたようです。「これはおじさんのお金で買った田んぼだから、おじさんだと思って絶対に手放してはいけないよ」と言われたものです。関東大震災のあと、アメリカが不景気になって絹糸が売れなくなって、さらには全国で冷害に遭って、東北では農家が自分たちの食べる米がないような状態でした。国が軍国主義に走りはじめ、私たちはむしろ戦争に憧れを持つようにさえなっていきました。勉強もせず、遊びといえば軍隊の真似ごとばかりしていました。
中学校から海軍へ
それでもそれなりの歳になって、「中学校を受験してみろ」と言われて、長野県長野中学校(現在の長野県長野高等学校)を受けたら受かってしまいました。行ってみたら、みんな優秀な学生ばかりで、同級生が200人くらいいる中の200番でぶら下がっているような感じですから、「こりゃ勉強ではダメだ」と思い、じゃあ子供の頃から憧れていた軍隊へ行ってしまおうと考えました。当時陸軍と海軍とがありましたが、陸軍は服装も地味だし、演習もぱっとしない。それに比べ、海軍は服装も格好いいし、軍艦というものに乗って世界中を旅行できるようなものだという話を聞いて、昭和8(1933)年に海軍に志願しました。
陸軍は誰でも入れてくれるようなところがありましたが、海軍には簡単な試験がありました。班長が優しい人で、可愛がられ、昭和11(1936)年には入れっこないと思っていた飛行学校へ行くことになりました。親の許可書は内緒で作って出しましたが、それが通ってパイロットとしてのスタートを切ったわけです。とは言え、戦争ほどの罪悪はありません。ハワイ、セイロン、ミッドウエーと戦いが進むにつれ報いが来るんだと思いました。ABCD包囲網の要求は国の存続を脅かすものでしたから、日本は中国への侵略と言われる行動をとりましたが、生きていくためでした。ですから戦争というものはどちらが良くて、どちらが悪いということではなく、必ず両方が悪いと考えます。戦争を続けていたら人類は破滅につながると、このころ一下士官である私の信念ができあがったように思います。
南京~真珠湾~セイロン島
昭和12(1937)年には、苦労していた精鋭部隊を、私たち飛行機部隊が援護して南京を陥落させました。参戦していない国の援助部隊の船を攻撃したことで、外国からは非難されましたが、国内ではむしろ評価され内地で教官となりました。昭和16(1941)年、航空母艦蒼龍に配属されました。高性能な新型機、ゼロ戦(零式艦上戦闘機)によりハワイ真珠湾攻撃をしましたが、私は母艦を守る役割で少々がっかりしました。そして当初の狙いほどの戦果を上げていないにも関わらず、国ではものすごい熱狂をもって迎えられました。
ハワイの時には、戦友たちが帰ってきて、あれを沈めた、これを爆破した、と自慢するのを我慢して聞いていました。次のセイロン島コロンボ飛行場攻撃の時には、イギリスのハリケーンという素晴らしいスピードを誇る戦闘機100機くらいを「小隊長として真っ先に飛んでいって、全滅させよ」ということで65機で出撃しました。スピードを活かした一撃離脱とか、1機あたり2機以上で戦うとか、相手もゼロ戦の性能をよく研究していました。ゼロ戦の機銃は口径が大きくて重いため威力のある弾丸ですが、多くを積めないので、弾数を節約するためにこちらも相手の顔が見えるくらい接近して撃つ、とか相手のスピードを見切った射撃をする、太陽や月を味方につける、帰艦時間を守るといった戦法を工夫しました。戦いは経験だなあと思ったものです。その際に吉川英治氏の「宮本武蔵」の兵法が役立ちました。
心が弱くなった時に見えるのは母親
燃料がなくなって、帰艦しようにも、艦隊が見つからない時があって、敵に突っ込んで死んでしまおうかとも思いました。ところが小隊長のマークがついているので、同じような状況の僚機が付いてきて、「私が死んでしまったら、彼がかわいそうだ」と思い、とりあえず飛び続けて燃料が尽きたらおしまいかなと考えていたら、水平線の雲が母親の姿に見えました。目鼻までついて、おいでおいでをしている。心が弱くなると母親が見えるんだなあと思いました。僚機が降下するので、自分より先に燃料がなくなったのだろうと思ったら、彼が目が良くて母艦を見つけてくれたのでした。着艦した時には本当に燃料がゼロでした。
最期は「天皇陛下万歳」とか「大日本帝国万歳」とか言って死んでいったとか言われますが、そんな人は一人もいません。最後はやはり母親ですよ。母親の存在というものはものすごく大きい。母親がおっぱいを与える。「いっぱい飲んで、早く大きくなって立派な人間になるんだよ」と、自分の愛情を全部子供に傾けておっぱいを与える。子供は一番最初に母親の顔を覚えて、信頼する母親から栄養を飲む。一番困ったときは母親です。だから戦争を止めるのは、母親と母親に育てられた若い人ですよ。年寄りは母親の顔は見えても、すーっと消えていってしまう。