徳谷章子氏【ハートフレンド】子どもたちに自信をつけられる場面をいっぱい作りたい!
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子どもたちに自信をつけられる場面をいっぱい作りたい!
「在り方大学」今回のゲストは、特定非営利活動法人(以下、NPO法人)「ハートフレンド」代表理事・事務局長の徳谷(とくたに)章子氏。大阪市東住吉区で、子ども会活動をしている15人の母親が集まり、子ども会とは異なる新しい組織を作ったことが、「ハートフレンド」の活動の始まりであった。折しも、土曜日が学校休業日になった時期と重なり、「すべての子どもたちの居場所づくりをしよう」と地域コミュニティづくりに取り組んできた経緯がある。
現在、「ハートフレンド」は地域子育て支援拠点事業、「こどもの(学習・遊びの)てらこや」に加え、高齢者支援「おとなのてらこや」など、乳幼児・親子から高齢者まで幅広い分野をつなぐ活動を展開する。長年、地域福祉の拠点づくりに力を注いできた徳谷氏の思いとは。<編集部より>
徳谷 章子氏 NPO法人 ハートフレンド 代表理事・事務局長
育児中の閉塞感が子育て支援事業の基盤に
株式会社フォーユーカンパニー 代表取締役 宮本 宏治(以下、宮本): まず、「ハートフレンド」設立のきっかけについてお話しいただけますか。
NPO法人 ハートフレンド 代表理事 徳谷 章子(以下、徳谷): 昨年、60歳の還暦を迎えた私には、3人の子どもがいます。現在34歳になる長男、33歳になる長女、そして30歳の次女です。
私は結婚を機に、桑津(大阪市東住吉区桑津)に来ました。当時、桑津には友だちがおらず、自分が子育てをしている時にも、精神的に大変なことがたくさんありました。
当時、私は中学校の教員をしていました。しかし夫は、大阪市平野区で油揚げの製造卸し工場を一族で営む、「会社」の長男でした。私は町工場の「長男の嫁」であり、家業の商売を手伝うのが当然、と言うような風潮がありました。
また、保育園に子どもを預けて教員を続けることは、30年以上前の当時、難しいことでした。実際問題、教員を続けるとしても、保育園とか子どもを預けるところがまず分からなくて。周囲も「産まれたばかりの赤ちゃんを預けるの?」みたいな反応でした。仕方なく、「もう私が教員を辞めて、子どもを見るしかない」と教員を辞め、育児に専念することにしたのです。
やはり元教員として、私には「子育てをがんばらなきゃ」みたいなプライドがありました。しかし、やはり1週間も経たないうちに、「皆が仕事続けているのに私だけ辞めて、何だか孤独」と寂しくなってしまったのです。友人の話を聞くと、羨ましくて仕方なくて。
しかし、新しい土地で友人もできない中、私は「子どもたちをを立派に育てることが私の仕事」と思い込み、「立派に、立派に」と、子育てをちょっとがんばりすぎてしまった感じでした。
現在でしたら、「保育園に預けて、働いたらいいじゃない」と周囲も言ってくれたと思います。しかし残念ながら、その頃はまだそのような時代ではなかったのです。
結局、「自分の生きている価値は、子どもが決める」みたいなところがありました。つまり、「子どもが誰かに褒めてもらえば、私が褒めてもらったような気持ちになる」。周囲を見ていると、やはりそういうお母さんは多いのですね。特に、家で子育てに専念されている方は、「子どもが誰かに褒めてもらうのが母親である自分の価値、子どもが叱られれば自分が失格」のように思えてしまうのです。周囲は何も言わないかもしれませんが、世間からそう見られているのではないか、というように。
仮に当時、居宅外就労をされていて、お子さんを保育園に預けていたら、保育園には保育士の先生もいらっしゃるでしょうから、お母さんも相談する方が見つかるのかもしれません。
しかし、家で育児をされているお母さんには、なかなか相談相手がいないのです。私の場合も子連れで行けるところと言えば、近所の公園くらいしかありませんでした。公園に行っても、何だか皆よそよそしいのですよ。挨拶ぐらいはできても、「うちの子、まだ歩けないんだけど」とか、「うちの子は2歳になって一言もしゃべれないんだけど、大丈夫かな」と言うような話のできる人は見つからなかったですね。
宮本: 当時は、「ママ友」なんて言葉もなかったでしょうからね。
徳谷: 公園では、話すきっかけがなかなかできないのです。仮に「ちょっとした友だち」になっても、例えばお互いの家を行き来出来るような関係になるには時間がかかるし、仮に行き来をしていても、困りごとを話せるかどうかと言うのは難しい問題です。
まあ、その方の性格にもよるのでしょうが、私は友だちがなかなかできませんでした。、今はどちらかと言えば人懐こいほうかな、と思いますが、当時は他人が怖くてね、「仲良くなりたいけれど、どうしたらいいのだろう」というような感じでした。
宮本: 現在の徳谷さんからは、とても信じられないですね。
徳谷: 一番上の長男が小学1年生に、一番下の長女が3歳になった頃、34歳になっていた私は、古い友人に学校の非常勤講師を頼まれたのです。家族に頼み、週3回午前中だけ仕事をさせてもらうようになりました。
子どもたちも学校へ入ったことでPTAも頼まれ、嬉しくなってやりました。
それまでは、地域活動には全く興味がありませんでした。夫が廃品回収の手伝いに行くと、「私助けんと、廃品回収なんか行って、人助けして」と言って怒っているようなタイプでした。地域なんて全く関心がなく、近所の方とご挨拶すら好まないほうでした。
宮本: ご主人のほうが、社会参加されておられたのですか。
徳谷:はい、廃品回収だけですが。「夫は地元に友だちがいるだろうけど、小学校だし。私はそもそも知らんもん」と、ひがんでいたところがあります。
しかし、自分の世界ができた頃、工場の仕事もある中でいろいろなことを一生懸命やりすぎたのか、ある日突然倒れてしまったのです。忘れもしない、元旦の日でした。倒れてから分かったのが、重度のうつ病でした。1日中、ほとんど布団から出られず、ずっと泣いていました。
一筋の光明となった「子ども会」活動
宮本: そんな中、人生の転機が訪れたそうですね。
徳谷: はい、それが「子ども会」でした。当初、夫は大反対しました。「やっと、表に出られるようになったばかりの人が、何を言うてんねん」みたいな。でも私は、自分の友だちがほしかったのです。「誰々ちゃんのお母ちゃん」とかではなく、「徳谷章子」として友だちになってくれる方がほしかった。34歳でうつ病を発症しましたから、それが36歳の時のことですね。もう、それから25年が経ちました。
「子ども会」の活動に12年程のめり込んで、10年後くらいには、桑津地区には14の子ども会があるのですが、それをまとめる会長まで務めました。区の理事をやって市の理事もやって。もちろん工場の仕事もしながらですが、「せめてこのボランティア活動ぐらいいいやん」と親族も了承してくれて、子ども会の活動を必死でやっていました。
しかし、10年くらいしてふと振り返ってみると、その時代、子ども会の活動と言えば、イベントばかりでした。いわゆる定時定点活動、学校を借りて同じ時間に、同じ人たちが集まって行う活動です。「子どもたちを育む」っていう一貫した考えのようなものがなくて、どちらかと言えばイベントでしたね。今年も「こどもだんじりやった、餅つきやった、クリスマス会やった」。それが当時の子ども会でした。私も、そう言うものだと思っていたのです。
ですから、イベントはすごくうまく運営できるのですよ。どうやってイベントを組んでいくか、どこに最初に挨拶をして、どこから根回しをやってとか、そう言ったことを叩き込まれました。挨拶一つを取っても、行くところや順番を間違えるだけでも叱られてしまうことがあります。イベントの肝になる部分を熟知しているので、ものすごくそれはうまいのですよ。
私たちが子ども会を一生懸命やる中、その頃は子ども会加入率ほぼ100%と言った状況で、「徳谷さん、それだけ子ども会好きやったら、どうぞどうぞ、会長をやってください」みたいな形になりました。
「根っこがないと、人との関係は続けられない」。その思いから「桑津子どもの家」をスタート
徳谷: そこから、子ども会の上部団体会長までさせていただいて。当時は寝食を忘れるくらい、子ども会が大好きで、全国子ども会連合会とかね、研修会も出席するようになりました。
すると、これでいいのかなって思い始めたのです。子どもたちが子ども会を卒業しても、皆が「会いたいな」と思ったらお母さんたちもまた会えて、子供たちも中学・高校行ってもまた遊びに来られるような「子どもの城」があったらなあ、って。
その当時、大阪市内のどこかで「子どもの城誕生」と言うのを、新聞か何かで読んだんです。建物を借りて地域の人が改修して、と確かそのような話で、「これやー!」って思いました。大阪市は児童館も少なく、私が住んでいたのは東住吉区でも一番端っこで、区役所は遠い、自転車乗らないと図書館も行けない、結局、子どもたちが遊ぶのは公園しかない地域でした。公の施設が何もなかったのです。
お年寄り向けの憩いの場はあるけれど、大人向けですよね。学校も施設開放委員会がありますが、その頃は私もあまり知りませんでした。子ども会と言えば、子どもたちが運営するものですが、実質は大人の会で、しかもその大人は子どもが卒業すると同時に去っていく。それでは、私がどれだけ1年間がんばっても、「根っこが残らへんやん」って思いました。
根っこがないと、やっぱり人との関係は続けられません。自分が1回精神的につぶれて寂しい思いをしていますから、それを繰り返すのは嫌だったんですね。なんか皆でわいわいお餅なんかついていると、一人じゃないって、孤独から逃げられるような。それがなくなる寂しさがありました。
「子どもたちが、地域の中で安心してのびのび遊べる場所がほしい」。その思いに理解をいただいた桑津連合会振興町会会長より申し入れを行い、ある建物を大阪市の協力で借りられることになったのです。「子どもたちの心地よい居場所になり、子どもたちにさまざまな経験をしてほしい」という願いが叶い、15名の母親が集まり、活動を始めました。
2003年6月に開所にこぎつけ、とりあえずは「子どもの家」と、当初はそれだけでオープンしたんです。ハートフレンドの名前は付いていません。「桑津子どもの家」ができました、みたいな。これから何するか考えます!みたいなスタートでした。(12月に「桑津こどもの家 ハートフレンド」と命名)
荒波の船出から、次第に支援の輪が広がる
徳谷: やっぱり世間は冷たくて。町で回覧板を3回も回してもらったので、地域の偉い方々はみんな知っている。しかし、実際、保護者とか地域の方々は、「子ども会が何かこそこそ始めたって」「何かな、あれ」っていう感じなんですよね。で、12月1日に始めて2004年の1~3月、6人ぐらいしか来ないのです。
そのような状況ですから、「てらこや塾」も発案して始めたのですが、まず、電気代が払えない。「ほら見たことかー」ってなって。でも、電気代やガス代などの水道光熱費は管理委員会名義で、私たちは困らない。だから、私はとっても元気。会長から「なあ、いつになったら自立できんねや」って言われても、「いや、がんばってるけど誰も来ないし」。「町回覧もう1回、回したらええがな」ってもう一度回したけれど、誰も来ないし、みたいなね。
もう会長のほうが必死で。「どうすんねん、ライオンズ(クラブ)でな、福祉の助成が始まって、10万円くれる言うねん。それに立候補したらどうや」と。それに出て10万円の助成金をいただき、掃除機と電話を買いました、みたいなね。「掃除機と電話買ったよ、会長!電気代は払えへん。現金がないからね」。当初は「電話もないのかー」って言う状態でした。
しかしそんな時に、地域で「なんか、ハートフレンドは子どもたちのことやってるけど、お金ないねんて」っていう噂が広まって、そうしたら地域の方々から、炊飯器からこたつに至るまで、ありとあらゆる物品が集まってきました。卓球台は本物が3台。ガレージがあるから、そこが卓球場になりました。
しかし・・・一番困ったのはピアノですね。エレクトーンはまだよかった。本物のピアノは置けないから、ですから、あの、仲介役みたいになって、「要りませんか?ピアノ」って。そしたらみんな来はるんですよ。「このピアノには家族の思い出がこもってるからね、とても処分できひん。ハートフレンドやったら、子どものために使ってくれるからぜひ」と、そこまで言われたら断れない。
書籍はもう3,300冊を超えて、2階の1室に図書室ができたくらいです。整理するのに1年かかりました。しばらくお金はないし、活動も軌道に乗っているとは言えないけれど、いろんな方々がそうやって来てくださるのが楽しくって、嬉しくって。
開設して4か月が経ち、2004年の3月になりました。でも、電気代は払えないんですね。連長に後で聞くと、この時点で「もう解散せなあかんな」と思ったんですって。これ以上、光熱費を連合会が負担する訳にはいかんと。
連長が「始めたけど、やっぱりこういうのはうまくいかんのやな」って思ったそうです。「どないすんねん」みたいな。私たちは、それぞれ単位子ども会の会長しながら、ハートフレンド始めたのですね。みんなそっちも忙しい。でもこっちも楽しい。こっちは、自分たちの喜びのためのもの。そんな私たちを救ったのが、2002~2004年で文部科学省が始めた、「地域子ども教室推進事業」でした。
私たちは、それを2004年に子ども会のルートで知り、「えー」って。地域の人が集まって、子どもたちのために居場所作りをしましょう、それに、国が委託事業としてお金を出しましょう、という取り組みでした。もう、「私たちのために生まれた国の事業や」って。パソコンも打てないけれど、手書きで申請書起こして、締め切りが2日後。3月末に提出したのです。区を始めとした、さまざまな方を経由して、全国子ども会連合会から申請していきました。それが4月。2か月後の6月に発表があって、「地域子ども教室として受託されました、お願いします」って。文部科学省ですよ。そんな、何もない、分からないような団体が、文部科学省の看板掲げることになって、みんな、それはとてもびっくりしました。もう、すごく夢みたいな話でした。
後に、全国子ども会連合会の事務局長に聞いたところ、全国から申請が集まってきたそうです。ほとんどが県の子ども会連合会とか市子ども会なのに、1か所だけ片仮名の「ハートフレンド」で申請が上がってきて、大阪市東住吉区からだと。大阪市は西淀川区の姫里子供会と、東住吉区の「ハートフレンド」だったんですね。申請内容を見たら、「え、1回ごとにお金を取っている。“てらこや”でも1回250円。“てらこや”と遊びと、赤ちゃんの広場をしていて」。
「子ども会とあるけれど、子ども会だけではないようだし、これは一体何だろう」となって、私はそれで「落ちるかな」と思いました。子ども会は、1回1回の参加費取らないことが多くて、年会費をいただいて運営することが多いのです。そこを、1回1回取るのは厚かましいみたいな、非難されるかもしれないって懸念したのですが、それが、「後々、自立を考えている」と理解されました。文部科学省からの条件として、「4年目には自立しなさい」があり、補助金は1年目が満額、2年目が80%で、3年目が50%にすると言う。で、4年目は自立が絶対で、つぶれてはいけませんっていうのが条件だったんです。それに、知らないうちに合致していたのですね。
地域ぐるみで子どもたちを育む。「ハートフレンド」がそのきっかけに
徳谷: 審査に落ちるところはなかったんですけど。文部科学省によれば、地域子ども教室からNPO法人へ変革したは、全国で私たちの団体だけなんです。そのような発展をしたと言うことで、非常に評価をしていただきまして、その3年間「日本教育新聞」に何回も大きく掲出していただきました。「日本教育新聞、桑津、子ども、居場所作り」ってね。「ハートフレンド」とは載らないのですね。
新聞に「桑津」って出ますから、それを印刷して、町会長など関係各位、お礼に回りました。皆にしたら、ハートフレンドだけが褒めてもらうのではなく、桑津地域子ども教室の実行委員構成メンバーに、全部の団体が入っていたのですね。
また、地域の学校の校長先生と教頭先生にも、メンバーに入ってもらっていました。文部科学省の看板でやるのは怖いなという思いもあり、先生方にも入ってもらっていたんです。月に1回実行委員会も開き、子どもたちの遊びの状況をお話ししました。
すると、これまで縁のなかった地域の方々が、「じゃあ、“てらこや”を手伝いに行こうか」とか、「囲碁・将棋やったら、ちょっと手伝おうか」とか、手を挙げてくださるようになりました。長寿会や民生委員の方々など、今まで子どもたちの活動に直接携わることがなかった方々が、私たちが実行委員会で報告する度に、「あー、それはええなあ」とか、「それは、子どもたち困ってるなあ」とか、「お母ちゃんらも大変やなあ」とか、「今の子ども、遊びにいくところがないんだな」とか言ってくださるようになり、子育てに対する理解も増えてきたんですね。
私が子ども会活動をしていた頃は、子どもは親が育てて当たり前。子どもがいけないことをしたら親のしつけができていない。親だけががんばればいい。まあ、よう言って子ども会やPTA。「地域ぐるみで子育てをしていこう」との概念はなかったように思います。「親がしつけて親が育てるんや」っていう意識のほうが強かった。
ところが、その3年間で、団体の代表とかメンバーの方々は少しずつ変わってきて、「子どもたちの活動に関わると、自分らも元気になるんや」と言われるようになったんですね。長寿会の会長さんや、PTA会長さんには、なかなかお会いする機会はありませんが、実行委員会で会う機会が増えると、話をするようになるし、3年も経つと仲間意識ができます。それが結果的には功を奏したのですね。
これは、子どもたちが私たちに教えてくれたことです。私も子ども会でがんばって、他の団体を助けて、助けられて。以前は、他の団体には助けてもらえなくて当たり前でした。他の団体も同様で、当時は一緒に何かをするということはあり得ませんでした。
NPO法人化への道。活動を通じて得た自信、それを子どもたちに伝えたい
徳谷: 3年やった後、このままどうしようと言うことになって、偉い先生方が、「ハートフレンド、NPOになるしかないね」って言われるようになったのです。NPOって何か分からないのに、「ハートフレンド、NPOになったほうがいいね」と。2005年のことです。関西大教授(子ども家庭福祉)の山縣(やまがた)文治先生とか、偉い大学教授の方が皆言われるのです。
そこで私は連合会長に、「会長、みんなNPO、NPOって言いはるんですけど、NPOって何です?」って聞いたら会長がね、「ほら、新聞載った、捕まりはったやろ。警察に」って。「あれやん。NPOって言うのは」って私に言ったんですよ、本当に。「あんなんなったらあかんよね」って。「あかんあかん、なんでそんなんをみんな、私に言われるのだろう」って、それで笑ってた。
その夏、山縣先生に名古屋の子育て研修でお会いしたら、「ハートフレンド、近いんだね。私、一度行ってもいいかな?」って言われる。「先生、そんなんしてもらっていいんですか」と聞くと、「遊びに行くわね、本当にNPOならへんの?」ってまた言われるんですね。
山縣先生の話では、「2005年から大阪市も子育てに力を入れて、地域子育て広場事業(現在は地域子育て支援拠点事業)と言うのが始まるけれど、これは法人でないと受託できない。ここで事業を受託できたなら、きっと活動が安定するよ」と。「え!」と思って、8月25日でした。そのまま帰り、すぐに連長に連絡し、「勉強会を開きたい」と言いました。すると連長は、「まあ勉強会ぐらい開こうか」と言ってくれたのです。
その頃、府庁で「NPOの手引書」を推進課でいただいて、分厚いのを読んだけれど全然意味分からず、でも勉強会開こうって。そしたら何か、思っていたのとはちょっと違って、あくまで組織の形を言うのだなと思って。だんだん皆も分かってきて、私たちはそれまでにも、熱心な運営者がいる間の子ども会はいいのですが、その方が辞めたり、転居したりするとつぶれてしまう子ども会やサークルをたくさん見てきました。
実は私もその頃、いっぱいやってしんどくなりつつあって、もし、ちょっと偉そうな言い方かもしれないけれど、「私が諦めた時点で、この活動がなくなったら嫌やな」と思ったのです。3年間地域子ども教室やって、小さな本まで出してもらって、日本教育新聞の付録ですが、全国に配布されて。自画自賛かもしれませんが、ここまで素晴らしい活動してる団体はないって。地域の方々が、スタッフとしてこれだけ入ってくれていて。私たちの団体では、89歳のおばあちゃんが答案の丸付けをしてくれるのです。
「今後つぶれないためにも法人化を選ぼう」ということで、まず、リスクを書き出しました。NPOになった時と、子ども会のままの利点と、大変なことと、それぞれ書き出してみることから始めました。すると、全国子ども会連合会が、その試みを「素晴らしい」と言ってくれて、2006年の2月に富山県で行われた全国大会に、文部科学省から課長がゲストで来られました。地域子ども教室事業を作られた方です。その全国大会で、私をパネラーとして出してくださったのですよ。
小さいところから始めた活動なのに、全国大会でパネラーなんかになってね。初めてですね。800名ほどの方が全国から集まって来られました。その時に文部科学省の課長もすごく褒めてくださり、「ぜひ、諦めないでがんばってください」と言ってくださいました。
全国大会には、私たち「ハートフレンド」からもメンバーがたくさん参加していました。もう、みんなで感動して帰ってきて、法人化の運びとなりました。それが2006年のことです。
それから、いろいろなことをやってきましたが、もう思いついたらすぐ行動するタイプなので、思いついたら連合長会長に相談しました。たいてい「ええがな」と、反対されませんでしたね。
で、連長に許可をいただいてから、地域の学校の校長先生のところへ出向くようにします。「連長がすごく褒めてくれたのです」と言えば校長先生も「絶対あかん」とは言われませんので、校長先生も「えーっ」と言いながらも、「じゃあ、この活動一緒にやりましょうか」みたいな感じで、さまざまな活動が生まれてきたのが、これまでの経緯です。
宮本:徳谷さんに、2つ質問させてください。
うつ病から回復されて、まず子育てとか言うのではなく、本当は友だちがほしかったということで、子ども会の世話人になられたのですか?
それが何をきっかけに、ご自身の子どもさん以外にも一生懸命関わろうというように変わられたのですか?
徳谷:5年ぐらいしてからですね。5年くらいは、やっぱり一人になると身体が震えるような、うつ病の後遺症がありましたから。1人になるのが嫌で、子ども会に参加していたようなところがあります。
でも、地元の子ども会連合会の会長になってから、さまざまなお母さん方と一緒に会議をするようになると、だんだん、「自分も大丈夫かもしれない」という自信が出てきて、お母さん方と話すうちに、困りごともいっぱい聞くようになります。困りごとを聞くうちに、子ども会の活動を通して、子どもたち自身にも、自信がつけられる場面をいっぱい作ることができたらな、と思うようになりました。そんな思いが、先ほどお話ししたような活動につながっていきました。
宮本:本日は、貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
プロフィール 徳谷章子氏
NPO法人ハートフレンド 代表理事・事務局長
放課後等デイサービス・ハートフレンド管理者
1955年生まれ。京都教育大学卒業後、中学校に勤務。結婚・出産を機に退職。
2000年から桑津子ども会連合会の会長を務める。子ども達の遊び場を創りたくて、2003年、子ども会の母親15名と任意団体「ハートフレンド」を発足する。文部科学省の「地域子ども教室」を運営を経て、2006年にNPOを設立。
地域子育て支援拠点を4か所と放課後等デイサービス・ハートフレンドを運営。高齢者対象の「おとなのてらこや」事業や遊びを通じて、世代間交流の推進にも力を入れる。出産から高齢者までの共生福祉のまちづくりをめざす。
http://heart-fd.jp
インタビュアー 宮本 宏治氏
株式会社フォーユーカンパニー 代表取締役
1995年 大阪工業大学 卒業
1997年 株式会社ビルディング企画入社 営業・人事・経営企画室・大阪支店長歴任
2012年 株式会社NSEエデュケーション 入社 代表取締役社長就任
2014年 株式会社フォーユーカンパニー 設立