辻正矩氏 藤田美保氏【箕面こどもの森学園】子どもたちが自らの考えで判断し、 行動していくことができる自立した人間に育ってほしい
- 2015/12/1
- 対談・インタビュー
- あり方, オルタナティブスクール, ソーシャルビジネス, フリースクール, 社会起業家, 箕面こどもの森学園, 藤田 美保, 辻 正矩
Contents
なぜ私は学校を創ろうと思ったのか
NPO法人 箕面こどもの森学園 学園長 代表理事 辻 正矩 氏
2004年、大阪府箕面市に、市民が創るオルタナティブ・スクール(学校教育法に属さない非正規の学校)「わくわく子ども学校」が誕生しました。
5年後、箕面市小野原の新校舎へ移転し「箕面こどもの森学園」に改名。教科書中心の一斉授業を行うのではなく、子供の個性を尊重し、生活体験を基盤にした教育方法を研究・実践しています。
同時に、「子どもたちと学校の大人との関係も、民主的な関係でありたい」という思いから、話し合いや対話を大切にしています。子どもたちがこの学校を支える一員としての自覚を持ち、協同性も身に付けていけるよう支援しています。
実際に、子どもたちは学校生活での経験を通し、「生きる力」を身に付けてきています。卒業生たちは、「この学校の生活で身に付けたことが、現在の生き方の土台になっている」と言います。
【学校教育への疑問】
私が学校教育に対して疑問を感じたのは、今から30年ほど前のことです。当時、私は大学教師として建築を教えていましたが、学生の学習意欲の乏しさにうんざりしていました。
多くの学生たちは何事にも受け身で、授業に集中できず、友達と、常にこそこそおしゃべりをしています。それは、年々ひどくなってきました。
一体何のために、彼らは高い授業料を払って大学に来ているのか。彼らの目的は卒業証書を得ることであって、知識の取得ではないのです。
そのような学生たちとやり取りしているうちに、彼らだけに責任があるのではなく、「一斉授業で画一的な教育を受け、受け身での学習を強いられてきた、高校以前の学校教育のやり方に根本的な問題があるのだ」ということに気が付きました。
【日本のフリースクールを訪ねる】
私の娘が高校に進学する時も、同じような疑問を持ちました。受験勉強に力を入れる管理主義の学校には娘を入れたくなかったのですが、あいにく近くには行かせたいと思う高校がなかったのです。大学進学のための教育は熱心ですが、その子の持つ個性を伸ばす教育をしている学校はありませんでした。
そんな時、子どもの個性や自立性を伸ばす「フリースクール」が海外にあることを知りました。
ちょうどその頃、日本でも「フリースクール」を創る動きが始まっていて、海外の自由な学校のことが紹介されるようになりました。
当時(1980年代半ば)の日本では、落ちこぼれ、いじめ、不登校などの問題がマスコミに大きく取り上げられるようになり、フリースクールやフリースペースと呼ばれる、不登校児のための学び場が創られ始めたところでした。
フリースクールさとぽろ(札幌)、東京シューレ(東京)、野並子どもの村(名古屋)、フリースペースなわて遊学場(大阪)、わく星学校(京都)、地球学校(高砂)などがあり、それらのいくつかを見学に行きました。
「フリースクール」や「オルタナティブ・スクール」のほとんどは正規の学校ではありませんが、1992年に和歌山県橋本市にできた「きのくに子どもの村学園」は学校法人の私立学校です。
私立学校と言っても、「サマーヒル」と「キルクハニティ」の両スクールをモデルにした、独自のカリキュラムが組まれており、自由な教育を行っています。
この学校ができて2年目に、見学に行きました。各クラスの授業を見て回りましたが、クラス名や活動内容がユニークで魅力的でした。
しかし、話し合いに参加しない子や、別室でマンガの本を読んでいる子もいて、「活発だけどまとまりがない」印象を受けました。
ところが、15年後に訪れると、子どもたちはとても落ち着いていたのです。自由な教育を長年受けると、わがままになるのではなく、思いやりのある子に育つのだということを実感しました。
1993年に「東京シューレ」を見学した時には、校内を案内してもらい、子どもたちとも話をしました。その明るく積極的な話し振りに、私の持っていた不登校児に対するイメージが覆されました。
見学者の中に、大阪から来たという高校教師がいました。見学が終わってから一緒に飲みに行き、意気投合しました。それが、後に一緒に会を立ち上げた増田俊道さんです。
もし彼と出会わなかったら、私が学校を創ったかどうかは分かりません。人の出会いって本当に不思議です。
【新しい学校のイメージづくり】
1999年には「子どもの主体性を尊重する自由な学校を創りたい」という人たちが、私の家で定期的に会合を持つようになり、10月に任意団体の「大阪で新しい学校をつくる会」が発足しました。初回の参加者は、元小学校の先生、高校や大学の教師、フリースクールの主宰者など5人でしたが、回を重ねるごとに参加者が増えてきました。
毎月定例会を開き、新しい学校のビジョンについて話し合い、1年ほどかけて新しい学校の設立趣意書を作りました。
当初、高校生のための学校を考えていましたが、最終的には小学生を対象にすることになりました。
私たちがまず考えたことは、「子どもたちが自らの考えで判断し、行動していくことができる、自立した人間に育ってほしい」ということでした。
【「土曜わくわくクラブ」を始める】
「学校を創る」と言ったものの、何から始めてよいか分からなかったので、「まずは子どもを知ろう」ということで、2000年から土曜日に月2回、子どもたちの自由な遊びと学びを支援する「土曜わくわくクラブ」を大阪市内で始めました。
2002年4月、箕面市にあるコミュニティセンターに拠点を移した時には、参加する子どもの数が16人くらいまで増えて、活動もダイナミックになりました。
「わくわくクラブ」では、子どもたちにその日やりたいことを挙げてもらい、それを中心に1日の活動計画を決定しました。時には野外活動で、箕面周辺の川や山にも出かけたものです。
【学校設立に向かって動き出す】
2002年は転機の年でした。千里中央(大阪府豊中市)の公民館を借りて毎月の定例会を行うこととなり、会員数も20名を超えるようになりました。
また、教育をテーマにした講演会を開くようになったのですが、5月に開いた、アメリカのチャータースクール(アメリカで誕生した、新しいタイプの公立学校)第1号のシティ・アカデミー高校 校長 マイロ・カッターさんの講演会が大きな反響を呼びました。彼女の講演を聴いて、新しい学校を創ることの意義を再確認すると共に、大きく勇気付けられました。
2003年1月にはNPO法人設立総会を開き、5月に大阪府の認証を得て、6月にNPO法人の登記をしました。
その夏には、箕面市の中央生涯学習センターを借りて、小学生対象のサマースクールを開きました。34人もの子どもたちが参加し、12人の支援スタッフと楽しい交流の時間を持ちました。このサマースクールの企画と運営を通して、新しい学校の教育の姿が少しずつ見えてきました。
これまで、海外のいくつかの自由学校を見てきて、私は「日本の教育がいかにひどいかを知ってしまったのだから、今の日本に必要なモデルとなるような学校を創らないわけにはいかない。でも、学校づくりのノウハウをもたない私にできるのだろうか」といった自問自答を繰り返していました。
そして、最後に私はこう思いました。
「死ぬ瞬間に自分の人生を振り返った時、その思いがありながらそれをやらなかったとしたら、きっとそのことを後悔するだろう。このまま、自分の思いを形にしないまま死んでしまうのでは、自分の人生は完結できない。そうならないためにも、理想の学校を自分の手で創らなければならない」と、決意を新たにしたのです。
このような小さな学校が10年間も続いてきたことは、今の日本の教育の状況の中では全く奇跡のように思われます。
それと言うのも、保護者の皆様を始め、多くの方々のご支援があればこそと深く感謝申し上げます。
「わくわく」した気持ちで、学校という「森」を創ろう!
NPO法人 箕面こどもの森学園 校長 藤田 美保 氏
「NPOは、10年経って初めて一人前って言われる世界やからね。」
開校1年目、スタッフにそう言われたことを今でも覚えています。その時は10年なんて何だか途方もない年月に思え、気が遠くなったものですが、時を積み重ね、ついに10年目を迎えることができました。
この10年を振り返ってみると、本当にいろいろなことがありました。
開校1年目の2004年。7人の子どもたちが入学してくれました。目の前にモデルとなる人も、経験もない中、手探りで学校づくりが始まりました。
どの子も本当に個性派ぞろいで、子どもたち同士がぶつかりあうことも多かったです。そんな中、子どもたちの興味関心を中心とした学びを少しずつ積み重ねていきました。
現在ある学校行事も、学校側から提示したものは1つもなく、1年目の子どもたちが話し合いで決めたものです。
ある女の子が夢で見た、夏祭り。その話がハッピータイム(子どもが皆に聞いてもらいたいことを自由に話す、朝の20分間)で話題になり、夏祭りを実施することになりました。
また、「運動会をしたい」という意見が出たので、話し合いを重ね、現在行っているスタイルの体育祭が始まりました。
2学期末に行っている「お楽しみ会」も、この時のメンバーが企画したものです。初めてということもあり、あーでもないこーでもない、とかなり長い時間をかけて話し合いが行われたものです。
少しずつ子どもたちの数が増えていき、開校4年目には、低学年クラスと高学年クラスに分かれて学習することになりました。そのため一軒家では手狭になり、新しい場所に移転する計画が持ち上がりました。
最初は大きな住宅を買うことを検討し、物件をいくつも見に行きました。一度は箕面市外院の豪邸に決まりかかったこともありましたが、交通の便が悪いということで断念しました。
そんな中、学校の趣旨に賛同してくださる不動産会社の方とのご縁があり、親身になって移転先を探してくれました。
そこで紹介された物件の1つが、現在の「箕面こどもの森学園」の土地でした。現在でこそ、いろいろなお店がある華やかな住宅街ですが、当時は宅地化されたばかりで、周りにはあまり建物がありませんでした。
唯一あったお好み焼き屋で鉄板を囲み、これから集めなければならない金額の大きさに震えながら、ここに決めるかどうかを学園の理事たちで協議しました。
移転に伴い、「学校の名称を変えよう」という提案が運営委員会に出されました。「わくわく子ども学校」と似ている名前の団体がいくつかあり、紛らわしいということ、この学校が発展していくためにはもっと相応しい名前に変えた方がよいのではないか、との理由でした。
「名前を変えよう」という意見がある一方で、「慣れ親しんだ現在の名前がいい」という意見もあり、何度も話し合いが行われ、最終的には総会で投票して決めることになりました。
その結果、いくつかの学校名候補の中から選ばれたのが、「箕面こどもの森学園」という名前です。
新校舎に引っ越してから、次第に子どもたちの数も増え、いろいろな方がスタッフや学習サポーターとして関わってくれるようになりました。
拠点ができたこともあり、活動もダイナミックになってきました。オープンスクールを行って見学者を積極的に受け入れたり、外部講師を学校に招いたりすることも増えました。
NPO法人の事業としても、いろんなお店に出店してもらう「ロハスinこどもの森」や、講演会、熟議を行ってきました。
現在では、「哲学キャンプ」や「教育カフェ・マラソン」など、大人の対話文化を育む活動も増えてきています。
「何かをやり続けることは、何かをやろうって思うことの何倍も難しいよね」と、あるスタッフが私に言いました。確かに、立ち上げる時にもパワーが要りますが、立ち上げたものを続けていくのには、その何倍ものエネルギーが必要でした。
「継続は力なり」、中学生の頃、「日頃から勉強しなさい」という意味で言われ、大嫌いだった言葉。その言葉の持つ本当の意味が、少し分かった10年でもありました。
学校を通して出会ったすべての人に感謝しつつ、また10年先、さらにその先の未来を見つめ、「箕面こどもの森学園」をもっともっと社会から必要とされる学校にしていきたいと思っています。
「箕面こどもの森学園 10年のあゆみ」
発行者 NPO法人 箕面こどもの森学園 2013年10月1日 から引用・抜粋
箕面こどもの森学園 http://kodomono-mori.com/